プロポーズで貰ったカルティエのリングが偽物だった…。 - Peachy - ライブドアニュース
カルティエ 銀座の入場待ちの間に立ち寄ったアートギャラリーで、ふと目に留まった絵画を眺めていた私は、うしろからいきなり声をかけられた。
振り返るとブルーのスーツに身を包んだ男性が、私を見つめていたのだ。
身長は、180cmはあるだろうか。かきあげた長髪の間から見える切れ長の目が、ディスプレイライトを反射して琥珀のように光っている。
「いえ…。ちょっと見てただけです」
「これは、あまり価値のあるものではないですね。盗作に近い」
― 新手のナンパかな、変な人だわ。
不躾に声をかけてきた男性にイラッとしてしまった私は、その場を逃げるように立ち去り、カルティエへと向かった。
「申し訳ありません。トリニティネックレスですが、ただいま在庫を切らしておりまして…」
「そうですか…」
大手航空会社のCAとして働いていた私は、20代後半で転職。現在は不動産会社の広報部に勤務している。
そんな30歳の節目に、三連リングのネックレスを購入しようと思っていたのだ。しかし在庫がないのであれば、仕方がない。
今日は踏んだり蹴ったりだな…と思いながら店を出ると、みゆき通り沿いに停まっていたシルバーのアストンマーチンの中から声が聞こえた。
「先ほどは急に声をかけて、すみませんでした。どこかでコーヒーでも飲みませんか?」
…この男との出会いが、私を恐怖に陥れたのだ。
急に声をかけてきた男の正体は…
しつこい彼をうまくかわせず、連れてこられたのは『マーサー ブランチ ギンザ テラス』。
「改めまして、水川です」
彼は偉そうに長い脚を組みながら、そう名乗った。
ついでに渡された名刺に視線を落とすと、そこには「ファインアーツ&テクノロジー 代表取締役社長/アートコレクター 水川利春」と書かれている。
「アートコレクターと言っても絵画や彫刻を扱っていたのは昔の話で、今は現代アートやイーサリアムを始めとした、暗号通貨で取引されるNFTが主なビジネスです」
彼の口から飛び出す単語の半分も理解できなかったが、今後の展望をイキイキと語る利春の言葉に、自分の心がほどけてゆくのを感じた。
「雅さんはカルティエで、なにか探していたんですか?」
「トリニティネックレスを。でも在庫がなくて、買えなかったんです」
その日から頻繁に連絡がくるようになり、彼と食事を共にするようになった。
そして出会いから3ヶ月後の、クリスマス。銀座『ル・シーニュ』でシャンパンを開けると、利春は、真っ赤なカルティエの紙袋をテーブルの上に置いた。
「えっ、なにこれ…」
「いいから。開けてみて」
箱を開くと、そこにはトリニティネックレスが、シャンデリアの光を浴びてキラキラと輝いていたのだ。
「ダメです…。こんな高いもの、貰えません」
そう遠慮したにもかかわらず、ワイングラスをかかげる利春のペースに飲み込まれてしまい、そのまま彼に抱かれてしまったのである。
それからというもの、私の生活はガラリと変わった。
利春はアストンマーチンのハンドルを握り、美術館や一般の人が立ち入ることのできない旧跡、会員制ホテルのラウンジなどに、私をいざなってくれたのだ。
「僕と結婚してほしい」
そして迎えた、交際1年の記念日。利春は軽井沢にある大きな別荘で、カルティエのリングを私の薬指にはめてくれた。
― やっと、本物の男性に出会えた…。
彼からプロポーズされたそのとき、自分が幸せの絶頂にいることを実感した。
だが、そんな喜びもつかの間。事件は起きたのだ。
◆
ある日の早朝。インターホンの音で目覚めると、玄関先にグレーのスーツを着た3人の男性が立っていた。
「三田警察署の者です。夏木雅さんですね?水川利春さんをご存知ですか」
「は、はい…。利春が、なにかしたんでしょうか?」
私は彼らを部屋にあげると、ソファに腰掛けて、拳を強く握りしめた。薬指にはめた婚約指輪が、手のひらに食い込む。
「ちょっと、リモコンお借りします」
刑事の1人がリビングのテレビをつけると、高層ビルの正面玄関から、段ボールの箱を次々と運び出す警察官の姿が映し出された。
画面の左上には、テロップで「ファインアーツ&テクノロジー社、800億円にのぼる巨額詐欺の疑い」と書かれている。
「どういうこと…?」
「代表取締役社長の水川利春とは、どのようなご関係ですか?」
「えっ…。あの、婚約者です」
私は足元が崩れ落ちそうになるのをこらえながら、淡々と状況説明をする刑事の言葉に耳を傾けた。
利春は暗号通貨を介した詐欺行為を、会社ぐるみで行っていたようだ。価値のないアートを購入させ、多額の利益を得ていたらしい。
そして彼はすでに逮捕され、三田警察署に勾留中だという。
あの夢のような日々はすべて、詐欺行為によって得たお金で叶えられていたと思うと、私は胃の奥底から、鉛のようなものがせり上がってくる感覚をおぼえた。
「何もご存じなかった、ということですね」
言葉なく頷くしかない私を、彼らは憐れむような目で見たあと「まだ結婚していなくて幸運だった」と機械的に励ましてきた。
…だが、それだけではなかったのだ。
「水川容疑者が、三田警察署から警視庁に移送されます!」
アナウンサーの甲高い声に、ふとテレビの方を見上げた瞬間。私は凍りついた。
雅がテレビを見つめて、凍り付いたワケ
「この人…。利春じゃ、ありません」
手錠をかけられ、両脇を固められた「ファインアーツ&テクノロジー社 代表取締役社長・水川利春」は、50代くらいの背の低い太った男で、私が愛し合い、何度もその腕に抱かれた男とは別人だった。
「水川ではない?どういうことですか?」
身を乗り出す刑事を前に私は混乱し、安堵なのか悲しみなのか判然としない気持ちで、ただ「この人は利春じゃありません」と繰り返した。
◆
ファインアーツ&テクノロジー社の巨額詐欺事件は、被害額の大きさと話題性もあいまって、しばらくは世間を賑わせていた。
しかし大衆の興味も次第に薄れていき、いつしか別のスキャンダルへと関心が逸れていった。
それなのに事件から半年経っても、彼とは連絡が取れないままなのだ。
― 私が抱かれた水川利春は、いったい誰だったの?
もう彼のことは忘れよう。そう思った私は、利春から貰ったジュエリーや時計を抱え、質屋へ向かった。
「お客さん。これ、全部偽物ですよ」
「えっ…?」
「袋と箱はまぁ、本物ですけどね。中身は全部フェイク。申し訳ないですが、買い取れませんねぇ」
謎を残したまま、事件後に忽然と姿を消した利春。でも2人で過ごした幸せな時間だけは、嘘じゃないと思っていた。
だが彼が残した思い出は、完全に偽物だったのだ。それを理解した瞬間、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
呆然としながら質屋を出た私は、フラフラと銀座の街を歩き出した。…そのとき。
「雅!」
聞き覚えのある声が、背後から聞こえる。振り返ると、そこには私が抱かれた“水川利春”が立っていた。
「会いたかった…」
驚いて立ち尽くす私を、彼が抱きしめてくる。ホコリと汗が染みついたコートからはすえた匂いがし、無精髭の間から膿のたまった吹き出物が見えた。
「あなたはいったい、誰なの?」
「…許してくれ。俺はあの事件には何も関わっていないんだ。俺は水川の秘書で、永山亮。雅に隠していたことは謝る。でも、どうしても雅に振り向いてもらいたかった」
彼は水川の所有する車や別荘、会社の経費、そして名刺を使って“水川利春”を演じていたと、その場で打ち明けてきた。
関係者として事情聴取を受けていたが、詐欺事件への直接の関わりはないことで立件されず、今は日雇いの仕事を転々としながら暮らしているという。
「一目惚れだったんだ。もう一度、雅とやり直したい。今度こそ本物の俺として、君と一緒にいたい」
金や地位、華やかな世界に目がくらんだ私は“偽物”に抱かれた。
ならば目の前にいる“本物”の永山という男に、私はまた抱かれることができるのだろうか。
まるで別人のような永山亮を前に、私はただ、立ち尽くすばかりだった。
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