祖業をやめて焼きそばをブランド化 製麺所4代目は売り上げを5倍に | ツギノジダイ Facebook Facebook Facebook Facebook Instagram LINE Mail Mail Magazine Twitter Twitter Twitter Web Site YouTube
目次
- 売れずに苦労した修業時代
- 機械購入が最初は裏目に
- 模倣品をきっかけにブランド化
- 悩み抜いた商品一本化
- 顧客の声で「深蒸し麺」を開発
- イベント出店で認知も利益も
- メディアへの露出が増加
- 取材した老舗食堂からみた成功要因
売れずに苦労した修業時代
――大磯屋製麺所の成り立ちを教えて下さい。
初代の磯貝市太郎が1926年に「大磯屋うどん店」として創業し、1962年に現在の大磯屋製麺所になりました。製麺一筋でうどんも焼きそばも作っていましたが、今は焼きそばに絞っています。国産の小麦粉100%で作った「熟成焼そば麺」や、焼きそばに合うソースが主力商品です。
――家業に入るまでのキャリアを教えてください。
小さいころから実家の製麺業を継ごうと考えていたので、高校卒業後に名古屋調理師専門学校に進みました。継いだ時に焼きそばを調理して提供したいという思いもあったためです。
卒業後は修業のため製麺会社に就職。その会社の上司が独立して製麺会社を立ち上げることになり、私も新会社に移りました。
1社目は入社後すぐに製造ラインに入り、その後配達や簡単な営業も担当しました。立ち上げから参加した2社目ではゼロからお客さんを増やそうと、飛び込み営業から始めました。まだ信用がないハタチそこそこの若造だったので、なかなか売れずに苦労しました。
苦しい時期を越え、売り上げも製造量も増えてきました。給料が上がり仕事も楽しくなってきた時期でしたが、就職して2年ほどが過ぎた2002年、家族が病気になり実家に戻ることになります。
機械購入が最初は裏目に
――入社後はどんな仕事を手がけたのですか。
当時は母と私、パート従業員だけの小さな会社で、自社製造のうどんや焼きそばを地元の飲食店に卸していました。
焼きそばは私の祖母が開発し、麺が茶色かったことから地元で「茶色い焼そば」と呼ばれていました。小麦の外皮部分まで挽いてミネラル分が多い茶色がかった小麦粉を利用し、熟成に時間をかけているため茶色くなっています。
ビジネスを広げたい思いがあったので、古くなった製造ラインの改善に着手しました。衛生的な問題があり、製造量にも限界が見えていたためです。
母が残してくれていたお金で新しい機械を購入し、好評だった「茶色い焼そば」を大量に作れる体制を整えようとしました。
ただ、新しい製造ラインで「茶色い焼そば」を再現しても同じ味にならず、麺のコシも味も見劣りがしました。
水分量を調整したり練る時間を変えたりしても手がかりがつかめず、前職の会社や大手製麺会社に話を聞いても答えが見つかりません。
一つひとつの作業を見直し、生地を休ませる時間の違いに気付きました。新しい製麺ラインを使うことで、生地を入れてから麺になるまでの時間が短くなっていたのです。
最初は「すごいメリットだ」と思っていましたが間違いでした。昔の製麺ラインは少しずつしか作れなかったので麺になるまでに時間がかかり、結果的に生地を寝かせる時間がありました。この時間が麺のコシを作り、おいしくしていたのです。
生地をしっかり休ませる時間をとり、新しい製麺ラインで試したところ味の再現に成功しました。同じ味の麺を今まで以上の量で作れるようになったので、売り出すことに決めました。
模倣品をきっかけにブランド化
――営業はどのように行いましたか。
飛び込み営業を始めて回るうち、大磯屋のパッケージに似た麺が売られていることを知りました。地元で「茶色い焼そば」と呼ばれていた我が社の麺のパッケージには「大磯屋」という名前を書いていなかったんです。
模倣品は「焼そば」というフォントもパッケージの色使いも同じでした。また麺も同じような茶色をしていたため、間違って購入した方もいたのではないかと思います。
ただ模倣品は大磯屋のように製造過程で茶色くなったわけではなく、カラメル色素か何かで色付けしたもので、おいしい焼きそばではありませんでした。
このままでは大磯屋の焼きそばの評判が落ちると感じ、商品をきちんとブランディングする必要性を痛感しました。
私が営業を始めた時点では商標や意匠の登録などは行っておらず、営業しはじめて模倣品に気がつきました。今後のことを考えパッケージの変更・商標登録を進めることになります。
パッケージを一新して「大磯屋」の名前を入れました。商品名も「熟成焼そば」と銘打ち、「大磯屋の熟成焼そば」と打ち出すことになります。「熟成焼そば」は2018年に商標登録されました。
悩み抜いた商品一本化
――現在は商品を焼きそばに一本化したと伺っています。なぜ、うどんの製造をやめたのでしょうか。
元々は大磯うどん店として創業しており、私が入社した時もうどんと焼きそばの両方を売っていました。
法事の締めに食べる「法事うどん」と呼ばれ、箸でもてないほど柔らかい麺でしたが、さぬきうどんのようにコシがある商品が主流になる中、売り上げは減少していました。一方で、焼きそばは売り上げを伸ばしていました。
うどんは創業の品で、地元では「うどん屋さん」と思われていたので悩みました。弱者が強者に勝つための「ランチェスター戦略」という言葉がありますが、我々のような小さな存在は(商品を)研ぎ澄ませないと勝てないと考えました。
うどんの生産を続けることで、焼きそばの製造に時間を割けないという問題も発生しました。悩み抜いた結果、08年に商品を焼きそばに一本化しました。
顧客の声で「深蒸し麺」を開発
――「熟成焼そば」には改良を加えているのでしょうか。
祖母のレシピの基本的な部分は守っています。特徴的な茶色を生み出している小麦のふすま部分(小麦製粉時に取り除かれることが多い茶色い小麦の皮)を使うことや、5種類の小麦をブレンドして作ることは変わっていません。ただし、よりおいしくするために5種類のブレンド内容は少しずつ変えています。
より安全な商品にするため、原料は国産小麦に順次切り替え、21年夏に100%国産小麦で作るようになりました。
原価が上がるので悩みましたが、国産小麦100%の麺を社内で食べた時、全員が「おいしくなった」と言いました。生産効率の改善などを行いながら、できる限りコストアップを抑えて提供しようと決めました。
また、16年に深蒸し仕立ての麺を新商品として出しました。「熟成焼そば」を袋詰めした後、さらに蒸し器で蒸しあげています。
通常の「熟成焼そば」は消費期限が6日で、スーパーからもう少し期間を長くできないかという要望がありました。ニーズに応えるため、賞味期限が20日と長い深蒸し製品を作り、遠方のスーパーでも取り扱われるようになりました。
イベント出店で認知も利益も
――イベント出店にも積極的に進めていますね。
イベントへの出店は15年にスタートしました。元々飲食店への卸が中心だったので、お客さんに直接アピールする機会を増やしたかったことが理由の一つです。
地元のお祭りや企業のイベント、物産展など、あらゆる場所で焼きそばを焼いています。社員が直接お客さんの声を聞ける機会をつくりたい、という狙いもありました。
イベント出店は認知を高める機会と同時に、利益を上げる施策でもあります。
一般的な飲食店で焼きそばを提供すると、1食ごとに作るお店も多いと思います。しかし、我々は大きな鉄板で一度にたくさんの量を作れるので、2人で200食という量でも回すことができ、利益も十分に残せます。
我々が作る姿を見せることで「焼きそばはこう作るとおいしくなる」とアピールできるデモンストレーションにもなっています。
私にとっては普段話せない社員との「コミュニケーションの場」にもなっています。
メディアへの露出が増加
――「熟成焼そば」がメディアで取り上げられるなど、大磯屋製麺所は大きく成長しました。
ブランド化に成功してメディア露出が増えたことから、入社した02年は約2千万円だった年間売り上げも、20年度は1億円まで伸びました。
入社直後は、誰も手がけていなかった営業に力を入れることで数字を伸ばしました。その後はロゴや名称を整えたことで「茶色い焼そばがおいしい」というあいまいなイメージではなく、「『大磯屋の熟成焼そば』がおいしい」と覚えていただき、引き合いが増えたと思います。
焼きそばに特化したことで、多くのメディアに取り上げられたのも売り上げアップの要因の一つです。焼きそばに特化したメーカーが少ないうえ、手作業で製麺を行う様子はテレビでも映えるため、継続的に取材のオファーがあります。
メディアやイベントで露出が増え、スーパーからの問い合わせも増えました。賞味期限を伸ばすための新商品開発や、量販店取引での必須条件となる金属片の混入がないかをチェックする金属探知機の導入など生産ラインの増強を続けています。そういった一つひとつの施策が、売り上げの増加につながったと思います。
取材した老舗食堂からみた成功要因
大磯屋への取材は「こんなおいしい焼きそばを作っている人はどんな人なんだろう?」という興味からでした。お話を聞いて驚いたのは、焼きそばそのものは磯貝さんの祖母が生み出した昔からの商品で、大きく変えずに売り上げを伸ばしていた、という事実でした。
売り上げが大きく改善した老舗企業の多くは、商品の改定や新商品によって実現しました。
大磯屋は商品そのものではなく、ネーミングやパッケージの改定、焼きそばへの絞り込みなどを含めた「ブランディング」と、顧客接点を増やすための「イベント出店」を続けてメディア露出が増え、その結果、卸先が増えるという好循環でビジネスが拡大しました。
売り上げを伸ばしたいと思った時、自分たちの強みを理解し、その強みを生かすための施策を段階的に行ったことが成功の要因だと感じます。
「自分たちの強みは何か?」。改めてその問いの重要性に気がついた取材となりました。
相葉雅紀発案『VS魂』メンバー主題歌プロジェクト始動!佐藤勝利&岸優太、英語でのオーダーで爆笑をさらう
僕たちが身代わりに…奈良時代、父の釈放を求めて天皇陛下に直訴した子供たち (2021年12月11日) - エキサイトニュース
恋を知らない26歳が出会ったのは...『文学処女‐遅咲きの恋のはなし‐』 (2021年11月22日) - エキサイトニュース
“つばきごと”?「椿事」の正しい読み方は? 最近の政局でも起こりました【脳トレ漢字10】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト